今の自分にできること。
「3年後の自分のために、今何ができるのだろう?」
と考えたことはありませんか。
人は夢があり、それを達成したときの「ご褒美」が
あるとなるとがむしゃらになれます。
「夢」という言葉を使うと実現不可能なニュアンスも含まれるので、
最初から諦める人もいますが、「夢」のないところに、
「可能性」や「ご褒美」はないのです。
何をやってもうまくいかない時があると思えば、
何もかもがうまく行きすぎて不安になる時もある。
どちらにしても不満が出てしまうのは何故だろう?
お金持ちの方がいいし、物事が思い通りになる方がいいし、
夢は叶えられ望むものがすぐに与えられた方が幸せって思うのに、
それを願う自分がどこか空しくなってしまうのは何故だろう?
多分そこには“闘い”というものがないからだと思う。
人が自らすすんで行動するということは、
そこに“志”や“情熱”というものがあるから。
情熱とは“怒り”…生命が危険にさらされても
恐怖に立ち向う純粋な憤り。
だから情熱がないと不安に身がすくみ妥協し闘う意志がなくなる。
ケンカはよくないと大人は言う、
でも情熱が傾けられる場所はいつもケンカなのです。
相手を否定し消滅させる寛容のない暴力とは違う、
パンパンと相手とぶつけ合う自分の魂。
闘いを避けると当たり前のことが当り前に出来なくなる。
だから幸福が当り前に感じれなくなる。
そして、自分をぶつけるものがなくなれば、
もやもやとした不満を溜めて歯切れ悪く心は歪む。
世の中がつまらないのは、自分がつまらないから。
楽しさを望むなら、闘わなくてはならない。
もしかすると、闘うことは、
それはゴールのないマラソンを強いられるようなもので、
どこまで行っても到達しないのです。
だから「たら・れば」と言い訳ばかりで
諦めてしまう場合が殆どでしょう。
「こんなことを続けていていったい何になるというのだろう?」
と夢を忘れて考えることがありますが、
自分の心にはいつも「何にでもなる」と念じるようにしています。
実際、何かを経験していると、
後になってまったく分野の違う場合でも
それが生かされる場合が必ずあります。
なんでもいいから経験するという考えよりは、
どんな経験をしたとしても最終到達点である「夢」に
行きつくと考えられれば、それこそが「才能」だと思います。